『天地明察』の主人公にみる、会社を辞めた時のきぶん
江戸時代の「碁打ち衆」の渋川春海という若者が主人公なのですが、この「碁打ち」という職業は、将軍などの前で碁を打ってご覧にいれるということなどをする役目であり、渋川春海はこれを父から受け継ぎます。
そして、お役目としての碁の勝負は真剣勝負ではなく、あらかじめ過去の棋譜を暗記し対局するものであって、春海は今まで不満をみせずに職務を全うしてきましたが、実は内心、退屈しています。
この退屈な仕事以外の芸として、「算術」に没頭する春海なのですが、それが元になり話が始まってゆきます。
この小説の中で、春海は老中のひとりに呼び出され碁を打っている途中で
「お主、お勤めで打つお城碁は、好みか?」
と聞かれ、おもわず
「嫌いではありません」
「しかし、退屈です」
と答えてしまいます。
うっかり老中の前で本音を口にしてしまい、恐ろしくなりますが、そのあとの春海の心境に共感するところがありました。
城にふさわしくない碁打ちと見なされれば、今の生活を失う。空恐ろしい思いに押し潰される前に、心がふわりと逃げた。どう判断されようと構うものか。もしかすると一生、口にすることがなかったかもしれない言葉を、老中を相手に、こんなにも堂々と発せたことを喜ぶべきではないか。そんな、若者らしい、奇妙に虚脱した満足感があった。
恐怖で支配された職場で、言ってはいけないこと、やってはいけないことを気にして必死で「仕事に就いている」という立場にしがみついていたときに、おもわず本音が出て社長を批判してしまったのですが、そのときの気分がまさしくこんな感じでした。シチュエーションはまったく違うけれども、思ったことを正直に言ってしまえば今の生活を失うという状態で、口から言葉が出てしまった瞬間は、縮み上がるような心境でしたが、言っちゃったものはしょうがないと、開き直ったときの気持ちが、まさに“心が逃げた”という、そんなかんじでした。
これで、もし家族を養っていかなければいけない立場だったとすると、すぐに弁解して平謝りしたのだろうとおもうのですが、春海と同じように若者だったために、開き直れたのかもしれません。また、今の仕事だけが自分のすべてではない、という心の拠り所のようなものがあったりすると、こうなるのかとも思います。
本意ではない仕事を守るか、捨てるか、という咄嗟の選択の際には、色んなものを秤にかけて考える余裕などないですから、ずっと自分の中でくすぶっていた本音が出てしまうのだと思います。それを言えたことに対する“奇妙に虚脱した満足感”が自分にもありました。
このあと老中は
「退屈ではない勝負が望みか」
と聞きますが、それに対する春海の反応は、
「はい」
と淀みなく答えた。毒を食らわば皿までといった心境である。
となっています。
心を決めてしまって、失うものなどなにもないと意識すればこそ、自分の今後の進退を決めてしまう権力者に対しても、堂々と応対できたのではないかと、あの時の自分と、主人公を重ねて読んでしまった小説でした。
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